ゆずかリレイションズ - ヴィーナスルネッサンス
 1

 神崎美月、星宮いちご、大空あかり――かつて、アイドル養成学校、スターライト学園から数々のトップアイドルが輩出されたアイドルの黄金時代……その歴史の中に、ひとりのアイドルがいた。名前は、明ヶ瀬ゆずか。その金色の髪と琥珀色の瞳を持つ姿と活躍から、天空に輝く金色の一等星『カペラ』の異名を持ち、アイカツの一時代の一翼を担っていた。
 ゆずかがスターライト学園中等部に入学してから五年後、もうひとつのアイドル養成学校、四ツ星学園にふたりの少女が中等部に入学した。明ヶ瀬流音(あきがせ ルネ)と神風輪舞(じんぷう ロンド)。彼女たちはゆずかの従妹であり、ルネは歌、ロンドはダンスの素質に恵まれ、それぞれ花の歌組、風の舞組でトップアイドルを目指し日々アイカツに励んでいた。
 そして、それから一年後の四月のある日のこと――

「ごめん、私やっぱりエルザちゃんの誘いには乗れないや」

 横浜みなとみらい21。二十世紀後半に『二十一世紀にふさわしい未来型都市』を目指し開発が進められた、横浜港に面するこの地域は、残り数年先まで開発のスケジュールが残っているものの、そこには多くの美しい建物が立ち並び、既に横浜の都心として機能して久しい。連日多くの人たちで賑わっており、晴れ渡ったブルーの空と春の暖かな日差しがこの未来型都市に平穏を与えているように見えた。しかし、ひとつだけ穏やかでないことがあるとすれば、この日の横浜港には、一隻の大型豪華客船が停泊しており、人々の注目を集めていることであった。
 ヴィーナスアーク。それがこの船の名前であり船の主、エルザ・フォルテは、みなとみらいの一角にある一流ホテルのレストランで、側近をふたり従えて会食に臨んでいた。目的はある人物との交渉であり、四角いテーブルを囲んで行われている食事の場には、エルザの左右を側近のふたり――バニラホワイトのショートヘアーの麗人と、水色とピンクの髪の毛を左右でお団子にまとめたまだまだ子供っぽい少女――が、そしてエルザの正面の席に対峙しているのは、ウェーブのかかった金髪を頭の左側に括り、トレードマークである赤縁の眼鏡の奥に覗く琥珀色の瞳をした女性、ゆずかに他ならなかった。エルザはこの日このレストランを貸し切っているため、他のテーブルには誰も着席していない。ドラマや映画などではこのようなシーンもあるかもしれないが、おおよそ実生活ではあり得ないようなシチュエーションが店内の雰囲気を支配していた。おまけに、エルザたちのテーブルから数メートル離れているが、灰色の立派な口髭を蓄えた老執事まで随えている。
「私が目指す世界一のパーフェクトなアイドルになるという偉業に、興味がないと」
 エルザはまだ中学三年生の十四歳の少女であるにもかかわず、世界一の偉業を成そうというその発言からは、年齢に不釣り合いな威圧感とも取れる堂々とした態度が感じられた。しかし、ゆずかはそれを風に揺れる柳のように受け流す。
「私も、昔はただひたすらにアイドルとしての高みと勝利を目指していたこともあった。けど、今は私のやりたいアイカツをこれからも続けていくだけ。だから、エルザちゃんとは同じ道は歩めない」
「ちょっとぉー! スターライト学園高等部の卒業生か知らないけど、せっかくエルザ様がヴィーナスアークの特別顧問にスカウトしてくれてるのに、断るなんて失礼じゃない?」
 エルザの側近のひとり――子供っぽい少女のほう――が、舌足らずな口調でゆずかに食って掛かった。これにはゆずかも苦笑せざるを得なかった。少女が怒った羊のような表情を見せるが、それをエルザが手をかざして制した。
「どうやらこれ以上何を言っても無駄なようね。でも、私は諦めないわ、ユズカ・アキガセ」
「期待に応えられなくてごめんなさい。でも、あの『パーフェクトエルザ』にスカウトされたのは光栄に思うわ。お食事、ごちそう様」
 そう言うとゆずかは膝にかけてあったナプキンを無造作に畳んでテーブルの上に置くと、席を立った。
「じいや、ユズカ・アキガセを丁重に外までお連れしなさい」
 エルザの合図でじいやと呼ばれた老執事が、ゆずかをレストランの外まで案内した。その様子を、エルザたちは無言で見送った。
「フフ、興味深い、実に興味深い。流石、一説にはかつてスターライトクイーンだった大空あかりを超えたとされるアイドルだけのことはある」
 会食の間ずっと沈黙を守っていた、エルザの側近のひとり――ショートヘアーの麗人――が、楽しそうにつぶやいた。
「きららも、ゆずかちゃんからはすっごいキラキラを感じたよ。ヴィーナスアークに来ればいいのに」
 きららと名乗ったもうひとりの側近も、麗人と同じく先の会食が楽しかったかのように笑顔を浮かべながら言った。
「だけどエルザ、このままじゃ彼女はなびきそうにないわね。どうするつもり?」
 麗人がエルザに問うた。
「ユズカ・アキガセには、ふたりの従妹がいると聞いてるわ」
 エルザがそれだけ言うと、麗人がおもむろにスマートフォンを制服のブレザーのポケットから取り出し、瞬時に操作してブラウザにふたつのタブを表示させた。まるで最初から役の揃っているポーカーの手札をオープンするかのように。
「このふたりだね」
 それは、四ツ星学園の生徒の情報が載ったウェブページだった。それをテーブルの上に置き画面をふたりに見せた。それぞれのタブにある生徒が写し出されている。
「明ヶ瀬流音、神風輪舞。それぞれ四ツ星学園で歌とダンスを専門にアイカツに励んでいるらしい」
「そして、ルネ・アキガセ、ロンド・ジンプウのそれぞれの家系の間に生まれたのが、ユズカ・アキガセと聞いている。つまり」
「ルネちゃんとロンドちゃんのふたりがヴィーナスアークに来れば、それはゆずかちゃんがヴィーナスアークに来たことと同じ! さっすがエルザ様!」
 麗人とエルザの会話から導き出される解をきららが無邪気に答えた。
「しかし、このふたりは明ヶ瀬ゆずかに比べればまだ足元にも及ばないし、四ツ星学園のトップスター、S4でもない。こんな子たちをヴィーナスアークに連れてきて意味はあるのか? この子達も白鳥ひめを手に入れるための虹野ゆめと同じく、『将を射んとするならば先ず馬から』なのかい?」
「それもあるわね。そして確かにあなたの言う通り、今はこのふたりはパーフェクトなアイドルには程遠い。けれど、それぞれがトップアイドルと同じ血を半分ずつ引くアイドル。それだけでも一度見ておく価値はあるわ。もしかしたら、今後スタープレミアムレアドレスを手に入れる逸材になりうる原石になるかもしれない」
「エルザがそこまで言うのなら、今度虹野ゆめに会うついでに挨拶をしておこう。ところで、明ヶ瀬ゆずかは話には乗ってくれなかったけど、ここのレストランの食事には満足だったみたいだね」
 そう言うと麗人は、ゆずかが去った席に残されたナプキンに視線を落とした。
 テーブルに置かれたグラスキャンドルの炎が静かに揺らめいていた。

 2

 四ツ星学園は新年度になり、三月のS4決定戦を制し、先代からその座を引き継いだ第二十六代S4――歌組・虹野ゆめ、劇組・早乙女あこ、美組・香澄真昼、そして第二十五代から続投の舞組・二階堂ゆず――が学園の中心となって新入生をはじめとした生徒たちを引っ張っていた。四ツ星学園にある四つの組、即ち花の歌組、鳥の劇組、月の美組、風の舞組は、学園主催の大きなイベントを除くと、基本的にはS4と呼ばれる各組のトップスターと、それを補佐する数名の幹部生徒によって運営されている。幹部生徒は新しく就任するS4によって任命される決まりになっており、ロンドはゆずから舞組幹部を任命され、新年度早々幹部の仕事に追われていた。この日は、学園主催で急遽開催が決定したライブの準備に学園の幹部生徒全員が借り出されていた。幹部たちが準備を完了すると、各々が劇場の観客席の中で生徒用に用意された席に着いた。
「神風輪舞、着席ー!」
ロンドも着席すると、その隣に銀髪をポニーテールでくくってカールを入れた少女が座ってきた。ロンドのルームメイトであり、ロンドと同じくゆずかの従妹であるルネだ。
「お疲れ様、ぷろと(ルネやゆず、そしてロンドと親しい友人たちは、ロンドの本名の一部を取って『ぷろと』と読んでいる)。それにしても今日のライブの開催、本当に突然だったわね。生徒だけじゃなくて一般の観客も呼んで、一体誰のライブなんだろう」
 恐らくこの劇場にいる殆どの生徒と観客が、同じようなことを話しているのだろう。普段のライブ前よりもやけにざわついている、ルネにはそう感じ取れた。
「それが、エルザ・フォルテって言う人みたいなんだけど、聞いたことない名前なんだよね。外国の人かな?」
「エルザ・フォルテ……私も知らない名前ね。でも、こうして緊急のライブが開かれるってことは、すごいアイドルってことよね」
 そう言ってルネが会場を見渡すと、客席はこれから始まるまだ見知らぬアイドルの突然のライブに期待と不安が入り交じった異様な雰囲気に包まれていた。
 間もなく、照明が下りてライブが開演した。

 エルザの披露したステージは、文字通り完璧なステージだった。ドレス、歌、ダンス、全てがトップレベルなのに加え、何よりもドレスに着いた羽がすべての観客を魅了した。
 これまでのアイカツの歴史の中で、羽の付いたプレミアムドレスが無かったわけではない。特にかつて星座がドレスのテーマとなった時代には『星座プレミアムドレス』と呼ばれるドレス全てに羽が着けられた。だが今回エルザが纏ったドレスに着いている羽はそれらを凌駕する存在感と魅力を放っていた。それは、まさしく選ばれた者だけが許されるトップアイドルの証のように、誰の目にも映った。観客の誰もがステージに魅入られて拍手をすることすら忘れていた。水を打ったかのように静まり返った観客席のどこからか、ひとりが拍手を始めると、やがて観客全員がエルザへ万感の拍手を送った。

 ライブのあとの片付けや撤収作業も、幹部の仕事だ。ルネもぷろとの手伝いをする形で作業に参加し、それが終わる頃には太陽が西の空を朱く染めながら地平線へ沈もうとしていた。これから学園の寮に帰ろうと、夕日が射し込む劇場のロビーの前をふたりが先のライブについて話しながら歩いていた。
「さっきのステージ、すごいって言うか、なんだか圧倒されちゃったな。私たちとは次元が違うって言うか」
「うん、あたしもあんなの見たことなかったよ。正直、今まで見たステージの中で一番かもしれない」
 ふたりは、エルザの圧倒的なステージに、興奮よりもむしろショックを受けていた。世の中には、あんなにすごいアイドルがいるのか。それも、ついさっきまで名前すら知らなかったアイドルだ。先代S4やスターライト学園を卒業した伝説的アイドル、そしてふたりにとってはアイドルの道を志すきっかけにもなった、偉大な従姉と並ぶか、もしかしたらそれすらも越えていたかもしれない。そんな疑念が言葉になってルネの口から漏れた。
「それって、ゆずねぇよりも……」
 そう言いかけたとき、ルネの視界にふたりの人物が入ってきた。夕日による逆光のため顔までは判別できないが、ひとりはショートヘアの少女、そしてもうひとりは緩やかなウエーブのかかったボリュームのあるロングヘアの少女――着ている服こそステージのときとは異なるが、先のライブで圧倒的パフォーマンスを見せつけた張本人、エルザだった。一面ガラス張りになっているロビーの窓の前でふたりは今まで誰かと話をしていたかのようだったが、エルザがルネたちに気づくと、それまでのことなど忘れてしまったかのように、ルネたちの方へ歩いてきた。もうひとりのショートヘアの少女も数歩遅れて近づいてきた。窓際にいたときは夕日の逆光で顔がよく分からなかったが、近づいてきたことによってそれはエルザの横にいても引けを取らない美貌の持ち主である麗人であることが分かった。
「君たち、明ヶ瀬流音と、神風輪舞だね。私はこちらにいる、今日のステージを披露したエルザの秘書を勤めている騎咲レイ。どうぞよろしく」
 先にルネたちに話しかけたのは、騎咲と名乗る麗人の方だった。
「な、なんで私たちの名前を……?」
 ルネがレイの言葉を聞いて訝しむ。ついさっきまで名前も存在も知らなかった超人的なアイドルたちが、自分たちの名前を知っている。そのことに不自然さを感じたからだ。レイもそれを感じ取ってか、詳細な説明をする。
「ああ、驚かせてしまってすまないね。私たちはアイドル学園『ヴィーナスアーク』の者でね、世界中を廻って優秀なアイドルをスカウトしているんだ。実はこの四ツ星学園に、あの明ヶ瀬ゆずかの従妹が通っていると言う情報を耳にしてね。それで調べさせてもらったんだ。だから君たちのことも知っている、と言うわけだよ」
 それを聞いてぷろとがレイに問う。
「つまりそれって、もしかしてあたしたちをヴィーナスアークに“引き抜き”するってことですか?」
 意図はその通りだが、わざわざレイが懇切丁寧な説明をしたにもかかわらず、そんなことを訊いてくるぷろとに、それまで沈黙していたエルザがわざとやや呆れたような表情を見せて言った。
「それ以外にS4でもないあなたたちにわざわざ興味をかけるとでも? あなた、先の私のステージを見たでしょう?」
 それは、ヴィーナスアークでアイカツを学べば自分のようになれると言うことだろうか。エルザの言葉に、四ツ星学園を莫迦にされているように感じたのか、ぷろとが憤慨した。
「あたしは、この四ツ星学園、風の舞組幹部として二階堂先輩と共に組と学園を支えていく義務があるんです! ヴィーナスアークがどんなにすごい学校か知らないけど、あたしはお断りします!」
 激昂するぷろとを前にしてもエルザは余裕の表情を見せながら今度はルネの方を向いた。
「ルネ・アキガセ、あなたはどうなのかしら? 見たところ、そちらの頑固者とは違ってここの幹部ですらないように私には見えるけど?」
 エルザがまるで品定めでもするかのように、ルネの上半身に視線を這わせた。ルネが着ている制服は、ぷろとのように幹部生のみが着用を許される紺色のブレザーを着ていない、水色のセーラーワンピースタイプのみの制服、つまり一般生徒のいでたちだ。
「ルネをバカにしてるの? いくらすごいアイドルだからってそんなのあたしが許さないよ!」
 ぷろとがエルザに食って掛かるが、エルザはそんなことはお構いなしに言葉を続けた。
「ルネ・アキガセ、あなたは今の自分の状況に満足しているのかしら? ユズカ・アキガセの従妹でありながら、歌組でS4どころか幹部にすらなれず、そこのロンド・ジンプウとも差をつけられてしまっている。あなたはこの一年間、四ツ星学園でなにかを成し遂げたと自信を持って言える?」
「それは……」
 ルネの言葉が続かない。完全な図星だった。エルザの言葉すべてが、まるで鋭利なナイフで臓器を抉るかのようにルネに深々と突き刺さる。思わずルネが目を逸らし顔を横に向けるが、エルザがそれを許さなかった。ルネに一歩踏み込み間合いを詰めて顎先を掴むと、無理やり自分の方へ顔を向けさせた。ルネとエルザの視線が交わった。その瞬間ルネは、エルザの金星のように輝くオレンジの瞳に自分の心の奥底まで読み取られているかのような恐怖感すら覚えた。本当はすぐにでも目を逸らしたかったが、それに反抗するかのように今度はあえて逸らさず睨みつけた。エルザはルネの恐怖に耐え震えている瞳を、無表情のまま見つめていた。
「ちょっと! ホントさっきからなんなの!?」
 ぷろとがふたりの間に割って入り、エルザの手を振りほどいた。ルネは、エルザの呪縛から解放されたことに内心安堵した。自分が冷や汗で全身に嫌な湿り気を帯びていたことに初めて気づいた。心臓の鼓動も、いつの間にか全力疾走した直後のように早く、強いペースでルネの胸を内側から叩いていた。自分の心音が体の内側から聞こえ、頸動脈やこめかみの血管を血液が勢いよく流れていく感覚が伝わる。完全に、人間が、いや、動物が恐怖に直面したときの誤魔化しようがない本能的な生体反応だった。
「この人たち意味分かんないよ! 行こう、ルネ!」
 ぷろとがルネの腕を引いてその場を足早に去った。残ったのは窓から射し込む真っ赤な夕日とふたりの美しい少女としばらくの沈黙だけだった。
「エルザ、彼女はどうだった?」
 レイがエルザに問うて沈黙を破った。エルザがルネの瞳の中を覗いたほんのわずかな間に、何を見出したか興味があったからだ。
「あの子……ルネ・アキガセのブルーの瞳の中に星の輝きを見たわ」
「星の輝き……?」
「微かな輝きだったけど、あれは紛れもなく今よりも輝こうとする意志。あの子はもっと伸びるわ」
「ふふ、それはとても興味深いな。やはりヴァーナスアークに引き入れるの?」
「そうね。私のもとへ来れば、更に輝きを増すに違いないわ。いずれはスタープレミアムレアドレスだって手に入れられるかもしれない」
 夕暮れのロビーに、暫くふたりが佇んでいた。

 3

 翌日、四ツ星学園の生徒会で緊急の会議が開かれた。議題は、ヴィーナスアークについて。ルネやぷろとだけではなく、歌組S4であるゆめまでもがエルザの強引な引き抜きに遭ったということで、副生徒会長の桜庭ローラが幹部生徒全員と生徒会長であるゆずを招集したのだ。通常の学校と異なり、四ツ星学園やスターライト学園のような生徒をアイドルとして教育し在校中から芸能界に送り出しているアイドル学校と生徒との関係は、企業と社員のそれに近い。即ち、生徒は貴重な人財でありその流出は極力避けるべきである。
 緊急会議が終わりぷろとが教室へ戻ると、ルネが席に着いているのが見えた。
「神風輪舞、参上!」
そう言っていつもの調子で明るく振る舞ってルネの隣の席に着席したが、ルネは頬杖をつきながら一瞬ぷろとの方に視線だけを向けたが、すぐに遠くを見つめるように誰もいない教壇に向け直した。何かを考えているようだったが、それは先日の出来事についてであることは、容易に想像ついた。
「あんな人のことなんか、気にすることないよ。っていうか、マジムカつくし」
 ぷろとが、ルネの横で勝手に昨日の出来事を思い出し息巻いている。しかし、ひとりで熱くなっているぷろととは対照的に、ルネのテンションは冷めたコーヒーのように低い。
「いや、確かにエルザ・フォルテの言うとおりだよ。私は四ツ星学園でこの一年間なにか成し遂げたかと言われると……悔しいけど答えられない。それなのに、世界にはあんなすごいアイドルがいて、昨日までそんなことを全く知らなかったなんて……」
 普段はその見た目にたがわず凛々しく男勝りなルネの予想外なテンションの低さに、ぷろとは慌ててフォローを入れようとする。
「た、確かにステージはすごかったけど、あたしは絶対にヴィーナスアークなんかに行かない。幹部のお仕事だってあるし、あたしはこの四ツ星学園でトップアイドルを目指す! ルネだって――」
「ぷろとは、それでいいかもしれない。二階堂先輩にも認められてる。舞組でも有望だって言われてる。だけど、歌組で幹部でもなんでもない私は、このままでいいのかな。私は、この四ツ星学園で、アイドルとしてこれから何が出来ると思う?」
 ぷろとのフォローも、ルネには通じなかった。むしろ幹部の話に触れてしまったことで、ルネを追い込んでしまった。更にフォローを入れようとするが、それが却ってドツボにはまってしまう。
「歌組は、他の組に比べてS4決定戦も競争が激しかったし、幹部だってあたし達と同じ二年生で特に歌が上手い桜庭さんに、三年生でずっと幹部をやっている芦田先輩と白銀先輩だし……っていうか、別に幹部だとかそんなの関係ないじゃん」
「幹部の仕事があるって言ったのはぷろとの方じゃない」
「なにそれ! それってあたしが悪いみたいじゃない!」
「ぷろとに私の気持ちなんて解らないよ!」
 ルネが怒鳴って席を立ち上がると、教室中の生徒がふたりに注目して黙っていた。それに気付いたふたりもそのまま固まってしまった。気まずい沈黙だけが教室を支配していた。
「……私、歌組のボイスレッスンがあるから」
 そう言ってルネは足早に教室を出ていった。廊下で歌組担当教師の響アンナとすれ違ったが、俯きながら歩いていたルネの眼中には入っていなかった。
「ベイビーたち、何かあったのか?」
 ルネの様子が普通じゃないことを察し、アンナが平静を装いながら教室の扉を開けて沈黙したままだった生徒たちに問うた。

 4

「そうか、そんなことが……」
 四ツ星学園学園長、諸星ヒカルは学園長室でアンナから先のルネとぷろとの口論の件について報告を受けていた。
「明ヶ瀬のアイドルとしての能力と活躍は十分に評価されていますが、本人は気づいてないみたいで……」
「私も同感だ。歌組は我が四ツ星学園四組のなかでも特に、類い稀な才能を持つアイドルが多く集う組。その中でよく頑張っていると思う。しかし、あの明ヶ瀬ゆずかの従妹でありながら思うようにスポットが当てられない自分に落差を感じているのかもしれないな。同じ従妹の神風にも、幹部として差をつけられていると言うのもコンプレックスになっているのか……?」
 四ツ星学園と異なりスターライト学園では、中等部のトップアイドルであるスターライトクイーンが専用の寮に住む以外は、生徒間での明確な位分けは存在しない。しかし、ルネとぷろとの従姉であるゆずかは、中学一年生で新ブランドのミューズになり、その年のスターライトクイーンカップの決勝トーナメントと紅白アイカツ合戦に出場。今のルネたちと同じ二年生になる頃にはその実力を認められ、全天に二十一しか存在しない一等星のひとつ、ぎょしゃ座のアルファ星『カペラ』の異名がついていた。もしも四ツ星学園に入学していたら、S4にだってなっていたかもしれない。そんなアイドルだからこそ、ルネもぷろとも尊敬し、アイドルへの道を志した。だが現実には、ゆずかには程遠いと感じ、その理想と現実のギャップに苦しんでいるのではないか。諸星はそう考えていた。
「神風のときと同様、伝説のアイドルの血筋を引いていることが、逆に自分を追い詰めてしまっているのかもしれないな」
 ぷろともまた、ゆずかと自分とのギャップに苦しんできた。ぷろとの場合は遺伝的素養で髪や目の色、そして顔立ちまでもゆずかにそっくりだったため、四ツ星学園に入る前からトップアイドルの生き写しとして周囲からの羨望を一身に受けて育ってきた。ぷろともそんな周囲の人間を夢中にさせるゆずかに対し崇敬に近い感情を抱き、ゆずかになりきることがゆずかに近づく手段だと考えドッペルゲンガーを演じ続けてきた。だが現実には、自分はゆずかと全く違うことに気付きながらも、そんな自分を認められず苦悩の日々を送っていた。そんなぷろとを救ったのは他ならぬゆずかであり、またその助け船を最初に出したのは諸星であった。
「とにかく、このままにしておくのは良くないですね」
「ああ。しかし、これは明ヶ瀬自身が乗り越えなくてはいけない壁。我々は、彼女のために背中を押してやることくらいしかできない……」
 学園長室の窓から射し込む明るい陽の光とは対照的に、諸星の声は重々しかった。

 5

 学園の中庭を、ルネはひとりであてもなくとぼとぼと歩いていた。つい先程、ぷろとに「歌組のボイスレッスンがあるから」と言って教室を飛び出したものの、それはあの場を離れるための出任せの口実に過ぎず、この日はレッスンの予定は無かった。寮に戻るのも、ぷろとと再び顔を合わせそうで戻りづらい。結局、このあとどうすればいいのか分からず途方に暮れることしか出来なかった。
 足を止めて、ルネは空を見上げた。澄んだ水色の空に真っ白な雲が流れているのを見ながら、一年前の四ツ星学園の入学式で、先代の歌組S4、白鳥ひめが新入生に贈った激励の言葉を思い出していた。
「もしも、アイドルとして道に迷ったときには、S4を見てください。私たちS4が、みんなの道標となります」
 迷っている……確かにそうかもしれない。こんなとき、先代のS4ならどうするのだろうか。入学以来、学園中の生徒が目指してきた偉大なトップスター。舞組S4を続けて務めているゆずを除く三人、白鳥ひめ、香澄夜空、如月ツバサは、中等部卒業と同時にS4の座も今の代に譲り渡した。それぞれが目指すべき夢に向かって、高く羽ばたいていったのだ。よく晴れた昼の空に、自分を照らしてくれる星はなかった。あるのは地上をあまねく穏やかに照らす太陽と、ゆっくりと流れている白い雲だけだった。まるで、自分だけが取り残されているようだとルネは感じていた。

「おや、君は明ヶ瀬流音じゃないか」

 誰かがルネを呼んだ声がした。咄嗟にルネが声のした方を向くと、声の主はレイだった。そしていっしょにいる少女がふたり。エルザときららであったが、ルネはきららを見たのは初めてで名前も知らない。だがしかし、他のふたりと同じくヴィーナスアークの制服を着ていることから、レイと同じくエルザの付き人かなにかだということは想像に難くなかった。
「あー、あの子、ゆずかちゃんのいとこの子だよね、エルザ様?」
 きららがルネを指差してエルザに問うた。指を指されることもそうだったが、何よりも顔も名前も知らない少女が、自分がゆずかの従妹であることを知っているだけでなく、馴れ馴れしく『ゆずかちゃん』と呼んだことが、まるでゆずかと面識があったかのような口ぶりで、自分の知らないところで事が運び、自分だけが取り残されているように感じられてルネを苛立たせた。その感情が思わずルネの整った顔を歪ませた。
「こら、レディに向かって指を指すのは失礼だぞ、きらら」
 レイがきららを諫める。
「すまない、きららが失礼をした。私から非礼を詫びさせてくれ」
 紳士的な態度でレイが謝るが、ルネの気分は全く晴れなかった。それが言葉に乗って口から出てしまう。
「何しにここへ来たんですか?」
 明らかに不機嫌そうな、到底相手を歓迎してはいない口調に、ルネ自身内心で少し驚いていた。
「ユメ・ニジノに会いに来たのよ」
 エルザが「悪いか?」とでも言うかのように、先日と変わらない高慢な態度で答えた。少なくとも、ルネにはそう見えた。一刻も早くここを立ち去りたい。既にルネは心の中でうんざりしていたが、次のエルザの言葉にそんな気分も幾分和らいだ。
「でも、面会はすぐに終わったわ。このあと、ユメ・ニジノとローラ・サクラバのライブステージがあるから、その準備があるんですって。私たちも、ふたりの実力をこれから確かめさせてもらうわ」
 それはルネにとって願ってもない情報であった。歌組の現S4とそれに次ぐ実力を誇る幹部生徒揃ってのステージ。ある意味ライバルでもある。自分はふたりと比べて何が足りないのか。ステージを見れば分かるかもしれない。今の自分の現状を打破する突破口が見出だせる。そう考えたのだ。ルネはエルザたちに挨拶もせず学園の大ホールへ駆け出していった。その様子をエルザが黙って見つめていた。
「やはり、彼女は自分を変えようと足掻いているようだね」
 レイがエルザの隣へ寄ると、彼女が思っていることを代弁するかのように言った。

 学園のホールから、生徒たちが次々と満足そうな表情で外へ出てきた。ゆめとローラのステージが大成功に終わった証拠だ。生徒たちのなかにルネの姿もあったが、彼女の表情は浮かなく足取りは重たいものだった。今回のステージはブランドドレスではなく、アイドルの基本衣装とも言えるスクールドレスを着てのものだった。しかし、それでも眩しすぎるほどに輝くふたりの姿を見て、ルネは困惑していたのだ。
「虹野さんと桜庭さん、ただのスクールドレスであそこまで輝けるなんてすごい。今の私じゃたぶん真似できない。だけど……!」
 言葉を続けようとするが、ルネはただただ胸の奥から沸き上がる感情を抑えようと奥歯を噛み締め、握り拳に力を入れる。爪が掌に食い込み痛みすら感じる。そうまでして抑えたい感情が喉元まで込み上げていた。
 とうとう感情が、ルネの両目から一筋の涙となって零れ落ちた。同時に、嗚咽が漏れる。

「くやしい……!」

 悔しさ。ルネを支配している感情は、同じ歌組でS4を目指し結果を残し、今も新入生に希望を与えているゆめとローラに対し、何も出来ずにいる自分への悔しさだった。自分がアイドルを目指すきっかけであり、今も憧れの存在である従姉のゆずかは、自分と同じ頃には既にブランドを持ち、一等星のひとつであるカペラの異名で同級生や後輩の希望の星になっていたと聞いている。ルネには、ゆずかと自分との差が天と地ほどに感じられた。

「私だって、ゆずねぇの従妹なのに……!」

 俯いた顔から、涙がぼろぼろと零れていった。

 6

 諸星が、自分の仕事場である学園長室で電話交渉をしていた。相手はエルザである。緊張感が室内に張りつめている。
「ええ、ではそちらの希望通り、ユメ・ニジノ、ローラ・サクラバ、マヒル・カスミを我がヴィーナスアークに短期留学生として迎え入れることを認めるわ。ただし、それにはひとつ条件を飲んで頂きたい」
「条件!? それは一体、どんなものだ?」
「そんなに難しいものではないわ。実はそちらのとある生徒をひとり、こちらに転入させたいと思っているの。その生徒とは、中等部二年、歌組のルネ・アキガセ」
「なにっ!? 虹野たちをそちらに短期留学させる代わりに、明ヶ瀬を転校生として差し出せと言うのか?」
「スタープレミアムレアドレスを得るために、私のところへユメ・ニジノたちを送り込むのでしょう? ならば、相応の対価を要求する権利が私にはあるわ。私たちの見たところによると、ルネ・アキガセは今そちらで伸び悩んでいるようだけど?」
「決してそんなことは……! とにかく、明ヶ瀬の意向を無視はできない。返答は追って連絡する」
「いい返事を期待しているわ」
 諸星は執務机の電話の受話器を下ろすと、予想外の事態に思わず低い声で唸り声を漏らす。諸星と同じ学園長室にいたゆずは、今の通話の一部始終を見て心配そうに声をかける。
「学園長、ルネちゃんをヴィーナスアークに転校させちゃうの?」
 学園の生徒を取引の材料に差し出す。そんなことはあってはならない。しかし、スタープレミアムレアドレスを纏ったエルザ・フォルテの出現により、今のままではアイドルの勢力図を丸ごと書き換えられてしまう。それを防ぐには、今学園の主力となっているゆめたちにスタープレミアムレアドレスを手に入れ、星のツバサを得てもらうしかない。悔しいことだが、S4や幹部生徒になって日の浅いゆめたちでは、四ツ星学園に居たままではそれが難しい。そのためにヴィーナスアークへの短期留学を提案したはいいものの、エルザの条件を易々と受け入れるわけにはいかなかった。それは、人財の損失以上に、学園で責任を持って預かっている生徒の権利にも関わる問題だからだ。諸星は苦渋の決断を迫られていた。
「いくら虹野たちに星のツバサを手に入れてもらうためだとしても、そのために我が校の生徒を差し出すことなど出来ないっ……!」
 諸星が頭を抱え苦悶の表情を浮かべると、ソファーに座っていたゆずがスッと立ち上がった。
「ゆずは、まずはルネちゃんに全部話すべきだと思うゾ。それにゆず、いい考えがあるんだゾ!」

 諸星とエルザの交渉から一夜が明けた四ツ星学園学園長室。一般生徒は滅多に入る用事など無い部屋に、この日ルネはアンナ経由で諸星から呼び出しを受けて学園長室のドアの前に立っていた。すぅ、と一呼吸置くと、ドアを二回ノックする。
「入りたまえ」
 ドアの向こうから諸星の声がしたのを確認すると、ルネはドアを開けた。
「失礼します」
 ルネが学園長室に入ると、諸星は執務机には着席しておらず、奥の壁一面の窓の外を向いていた。ルネからは諸星の後ろ姿しか見えない。
「よく来てくれた」
 そう言うと諸星はルネの方を向き顔を見せた。諸星の表情は窓から射す日光が逆光になっているせいなのか、いつも学園も行事などで見る堂々としたものではなく、やけに陰鬱に見えた。
「今から君に話すことは、明ヶ瀬の今後のアイカツに大きく関わる重大な事項だ。よく考えて決断してもらいたい」
 諸星の声がやけに低く重々しいのが、ルネにも伝わってきた。思わず唾を飲み込む。
「これはまだS4と一部の幹部生徒にしか話していないのだが、更なるアイカツの高みへ登ってもらうため、虹野ゆめ、桜庭ローラ、香澄真昼をヴィーナスアークに短期留学させる。これ自体には何ら問題はないのだが、ここからが君に関わることだ。その短期留学の条件として、エルザ・フォルテが君のヴィーナスアークへの転入を要求してきている」
 エルザによるヴィーナスアークへの引き抜きがまさかゆめたちの短期留学の話にまで事が及んでいるとは思ってもいなかったルネは驚きを隠せずにいるが、今自分が置かれている立場を諸星に訊ねる。
「つまり、私は虹野さんたちの今後のアイカツのための取引の材料、と言うことですか?」
「……そう言うことになる」
 諸星が重々しく、しかしはっきりとした口調で答えた。
「私の調べたところによると、エルザ・フォルテは少し前に君の従姉である明ヶ瀬ゆずかに接触してきている。どうやらヴィーナスアークに引き入れたかったらしい。この話自体は成立しなかったらしいが、今度は従妹の君に目をつけたみたいだな。もしや、これまでにもエルザ・フォルテとの接触があるのではないか?」
 ルネは言葉につまりわずかに息を漏らすことしか出来ないでいるが、諸星には十分な回答だった。
「やはりそうか……まさかエルザ・フォルテが白鳥と虹野以外にも引き抜きをしようとしていたとはな。学園の長として生徒を易々と取引の道具にするつもりはない。が、君の率直な意見も聞きたい」
 ルネの沈黙は続いていたが、暫くしてようやく口を開いた。
「私は……もしも今の私が変われるのなら、ヴィーナスアークに転校することも厭いません。それに、虹野さんたちにはこれから星のツバサが必要なんですよね? 私が動くことで四ツ星学園のアイドルたちが更に輝けるのなら、私は喜んで取引材料になります」
 なんという少女なのだろうか。学園のために、自分よりも他の生徒を優先するというのか。諸星は驚きを隠せずにいた。
「本当にそれでいいのか? 決断を急ぐことはない。他の条件に変えてもらう交渉も検討している」
「いいえ、これは私にとってむしろチャンスだと思っています。自分を変えるチャンスなんです」
 ルネの言葉に、諸星は思い至るところがあった。
「やはり、神風との差を気にしているのか?」
「それは……」
 ルネが言葉に詰まり顔を逸らす。元スターライト学園の偉大なアイドルを従姉に持ち、共に彼女を目指してきたルネとぷろと。先のS4決定戦を経て自分を変え、幹部になり成長したぷろとに対し、ルネは何も変われていない。自分を変えたい、ぷろとに追い付きたいという焦燥心とコンプレックスはきっと耐えがたいものなのだろう。諸星にそれを完全に理解することは出来なくとも、想像に難くはなかった。
「もう一度確認する。ヴィーナスアークへ転校する。それでいいんだな?」
「はい」
ルネは逸らしていた顔をもう一度諸星へ向けると、ハッキリとした口調で答えた。目にも声にも、一切の迷いが無かった。
「……わかった。では、転校の手配を進めよう。また、この件は実質的に虹野たちを短期留学させるための裏取引。極秘事項だ。ルームメイトである神風には勿論、他の生徒、幹部、S4にさえも話さないよう気を付けてくれ。この件に関しては、私から後日然るべきタイミングで、然るべき者にのみ話す。転校は虹野たちがヴィーナスアークに行った翌日。それまでは普段通りに学園生活を送ってくれ」
「わかりました。では、失礼します」
 一礼をしてルネが学園長室を出る。諸星ひとりになった室内が無音に包まれる。
「本当に……すまない」
 諸星は自分の無力さを嘆いた。目の前の悩み苦しんでいる自分の学園の生徒を、他の学園に送り出すことでしか救ってやれないのかと。それも、他の生徒のための取引に使ってしまい、そうするしか手段が無いことに。
 自分は何も変わっていないのか。二十年前、姉の雪乃ホタルを止めることが出来なかった自分が、今は自分の学園の生徒を止めることが出来ない自分を嘆いた。机の上に置かれた握り拳が震えていた。

 7

 ルネがヴィーナスアークへの転校の意向を諸星に伝えて二週間ほどが経った四月二十九日。この日、ゆめ、ローラ、真昼の三人がヴィーナスアークへ短期留学のため四ツ星学園をあとにした。ルネの転校はこの翌日、四月三十日。奇しくもこの日は、ルネの十四の誕生日であった。ぷろとはイベントの仕事が入っており、朝早くに寮を出てしまった。もちろんぷろとも、今日がルネの誕生日であることは分かっている。教室で口論になって以来、お互い未だに気まずく必要最低限の会話しか出来ていないが、ひょっとしたらちょっとしたお祝い事くらいはしてもらえるかもしれないし、仲直りのきっかけになるかもしれない。そんなことを少し期待していただけに、それを前に何も言わずに四ツ星学園を去ってしまうことに後ろめたさがあった。それとも、最後まで諸星の言い付けを守り何も言わずにここを去ってしまえばいいのだろうか。そんなことを考えながら、ひとりぼっちになった寮の部屋でキャリーケースに荷物をまとめていた。
 普段から整理整頓はキチンとしていたためか、すぐに荷物を積み終え、ヴィーナスアークからの迎えを待つだけになったルネはすべて片付け終えた自分の机に視線を落とした。隣にあるぷろとの机はノートや雑貨で雑然としており、その対比がやや非現実的に思えた。四ツ星学園に入学して以来、共に暮らしてきた部屋を今日出ていく。自分で決めたことなのに、どこか自分とはかけ離れた場所での出来事のように感じられた。無音の部屋で目を閉じて入学してからの一年間を思い出した。共に従姉であるゆずかをきっかけにアイドルを目指し、四ツ星学園に入学したこと。日々のアイカツに励みながら、ゆずかを目指し、時に迷い、決断をして、そしてS4を目指したこと。組は違えど、ぷろととは共に励まし合って高みを目指してきた、アイドル仲間というよりも戦友のような絆が出来ていた。
 目を開けると、ルネは部屋を出て寮を飛び出した。向かった先は本館の学園長室だった。

 日が西側に傾き沈みかかってきた頃、ルネのアイカツフォンに諸星から電話がかかってきた。
「はい、明ヶ瀬です」
「私だ。ヴィーナスアークから迎えの車が向かっているとの連絡が入った。神風のことは残念だが、時間だ。正門まで来たまえ」
 ルネは諸星に自分がヴィーナスアークへ行くことを伝えて、せめて出発の前にぷろとに一度会っておきたいと嘆願していたのだ。諸星もルネの心情を考慮し、連絡するように答えてくれたがまだぷろとは帰ってこない。仕方なくキャリーケースを引いて寮を出ると、そのまま車が停まる学園の正門へ向かった。視線の先に、人影が見えた。夕暮れで顔までは分からなかったが、幹部制服を着たその人影は、息を切らしながらこちらに走ってきては、ルネの前で立ち止まった。人影の正体はぷろとだった。両手を膝について肩で激しく呼吸している。相当の距離を走ってきたのだろう。
「ハァ、ハァ……! 学園長から聞いたよ! ルネ、ヴィーナスアークに行くって本気なの!?」
 呼吸を整え終わる前に、ぷろとがルネの両肩を掴んで問い詰めた。ぷろとの眼が明らかに焦りの色を示していた。信じられないと言わんばかりに表情は狼狽えている。無理もない。ルネの転校の件は今日まで誰にも教えていなかった極秘事項なのだ。
「……そうよ」
 そうではない。ルネは心の中で首を横に振った。何のためにわざわざ諸星に頼んでまでぷろとに事実を伝えたのか。せめて最後に別れの挨拶を交わしたかった。勿論、エルザのことを良く思っていないぷろとは反発するだろう。それも分かっていた。それでもやはり、ぷろとだけには……そう思っていたのに、口からは素っ気ない返事しか出てこなかった。ヴィーナスアークへ転校して自分を変えようと言う覚悟が、ぷろととの別れを惜しむ気持ちを上回っていた。そうでなくてはルネ自身決心が鈍りそうだったのだ。自己矛盾を抱えながら、ルネはそれ以上語らなかった。
「何考えてるの!? まさか、この前エルザ・フォルテに会ったときにヴィーナスアークっていいなとか思ったわけ? それとも、自分が幹部生徒じゃないのを気にしてるの? そんなの関係ないじゃん! 悔しいんだったら四ツ星学園で幹部にでもS4にでものし上がればいいじゃん!」
 ルネの両肩を掴んでいるぷろとの手に力が入る。それでもルネは表情ひとつ変えず、ぷろとの腕を払い除ける。
「そうじゃない。幹部だとかS4だとかそんなことじゃない。それ以前に、私はこの一年間、四ツ星学園で何もできてない。何も成長できてない。私は何者でどんなアイドル? 私がなりたいアイドルって、何? ヴィーナスアークは、全く新しい場所でのアイカツはそんな私を変えるチャンスなのよ」
 ルネも転校の理由を必死に説明するが、ぷろともどうにかルネを引き留めようと食い下がる。
「ルネ、変わったじゃん! S4決定戦のあと、女の子っぽくしようって、ポニーテールつくってカッコいいアイドルから自分がなりたい可愛いアイドルになりたいって!」
 ルネは無言で俯き気味に首を左右に振った。カールの入ったエクステで作られた偽りのポニーテールがゆらゆらと揺れる。
「それも違う! ただ見た目を変えただけで、私自身は何も変われてない! 私が本当に変わるにはもっとこう、周囲の環境から変えていかないと。そうじゃないと私はずっと変われないと思う」
 ルネの決心は変わらない。数秒の沈黙ののち、ぷろとが一言問うた。
「……四ツ星学園を、裏切るの?」
 それは、いつものぷろとからは想像もつかない低いトーンで発せられた声だった。いつもは従姉に似て真ん丸に開かれた眼が半開きになり、視線も据わっていた。ぷろとにはこれ以上ルネを引き留める手だてがない、最後の説得なのだという覚悟がルネには伝わってきた。だからこそあえて、ルネは毅然と答えた。
「これは、私が成長するために私で決めた道なのよ」
 覚悟を決めたを思われたぷろとの表情に、みるみるうちに動揺の色が表れてきた。今にも泣き出しそうなぷろとの表情が、今度はあからさまに怒りの色に染まっていった。それまでギリギリのところで抑えていた感情を爆発させた。
「ルネのわからず屋! 頑固者! だったらもうどこへでも行っちゃえばいいよ!! 何にだって変わっちゃえば? もうあたし知らない!!」
 そう叫ぶと、肩を怒らせながらそっぽを向き、ルネの方を振り向かずに最後に一言こぼした。
「もし、次にルネと会ったら、そのときは敵同士だからね」
 「敵」と言う思いもよらない単語が飛び出てきたことにルネは一瞬動揺した。勿論ルネはぷろとと敵同士になるつもりなど無い。それが無意識にぷろとに向けて伸ばされた手が証明していた。しかし今のぷろとには、ヴィーナスアークへ行くことは敵国への亡命に等しい行為なのだろう。差しのべた手を握り締め自分の胸元へ引き込むと、ルネは気持ちを抑え込んだ。いつか、きっとぷろとも分かってくれる日が来るだろうと望みを込めて。ルネには、夕日が射し込むなか背中しか見せずに立ち去るぷろとを、その姿が見えなくなるまで見つめることしか出来なかった。
 ぷろとの姿が見えなくなり暫くすると、校門の前に一台のリムジンが停車した。運転席からは立派な髭を蓄えた白髪の老紳士が出てきた。燕尾服を着ていることから、執事がそれに近い職の者なのだろうと言う想像はルネにも容易だった。
「明ヶ瀬流音様、お迎えに上がりました」
 老執事が慇懃に頭を下げ一礼をすると、後部座席のドアを開けた。それに従いルネもリムジンに乗車した。
 ルネがシートベルトを締めたのをバックミラー越しに確認すると、老執事がリムジンを発進させた。窓から見える四ツ星学園がどんどん小さくなっていった。

 8

 四ツ星寮に帰ってドアを開け部屋に入ると、朝まであった荷物が半分消えていた。何もない机、片付けられた二段ベッドの下の段、クローゼットのハンガーに掛けられた衣服。洗面台に置いてあった歯磨き用のコップと歯ブラシ。ルネに関するものがすべて運び出されていたのだ。それを知ったぷろとは部屋の真ん中で立ち尽くすことしか出来なかった。ルネとの別れが現実だったことを受け入れざるを得なかった。
「うわああああああああ!!! ルネのバカああーーーーーっ!!! 何で!!なんでヴィーナスアークなんかに行っちゃったのさ!!! 入学したときにいっしょにゆずか先輩みたいなアイドル目指そうって言ってくれたじゃん!!! ルネのバカ! バカ!! バカ!!!」
 大粒の涙を流し叫びながら、何度も自分の隣の何もない机を拳で叩きつけた。そしてぷろとは気がついた。従姉が共通しているだけで生まれも育ちも全く違ったルームメイトが、いつの間にかかけがえの無い友になっていたことに。共に競い、高め合い、励まし合った大きな存在であったことに気付いたのだ。
 ふと、自分の机に目を向けた。物が散らかっている机の上に、ひとつの小さな小箱があった。手にとって蓋を開けると、中には水色のリボンが入っていた。ぷろとが、ルネの誕生日プレゼントとして用意していたものだった。
「こんなもの……!」
 リボンの入った箱ごと頭上に持ち上げて、今は何もない隣の席に投げつけようとしたが、上げた腕が振り下ろされることはなかった。ただ震えるだけで、暫くして腕をゆっくり下ろすと、箱を自分の机の上に置いた。厚紙でできた箱はわずかに歪んでいた。
 ぷろとはその場でへたり込み、泣くことしか出来なかった。
「敵なんかじゃ……敵なわけないじゃん……! ルネは、大事な友達だよ……」

 翌日。諸星に呼び出されたぷろとは学園長室に入ると、そのまま諸星の方へ向かっては胸ぐらを掴んで詰め寄った。
「学園長! ルネのこと、どう言うことなんですか!?」
 ぷろとに胸ぐらを捕まれたまま押された諸星は高級そうな革張りの椅子に座る形で押し倒された。それでもぷろとの手は弛まなかった。しかし、諸星の表情には一切の怯えや狼狽の感情がなかった。まるで能面のような無表情が、ぷろとの怒りを更に加熱させた。その怒りを感じ取ってか、諸星がようやく口を開いた。
「殴りたければ、気の済むまで殴りたまえ」
 それを聞いて咄嗟に、ぷろとは諸星から手を離し一歩後ずさった。ルネをヴィーナスアークに送り出してしまったことに対する罪の意識と、償う覚悟があると気付いたからだ。だがそれでも、ぷろとの怒りは収まらなかった。怒りの矛先が分からないまま、握り締めている拳にばかり力が入る。
 椅子に座ったまま諸星はワイシャツの襟を直すと、改めてぷろとに視線を向けた。
「謝って赦してもらおうとは思わないが、明ヶ瀬の件については本当にすまないと思っている。しかし、ヴィーナスアークへの転校は明ヶ瀬自信の意思であったことだけは断っておきたい。そして、私も自分の生徒をこのまま手放すつもりもない」
 諸星の真意が読み取れず、ぷろとが訊ねる。
「どう言うことなんですか? ルネは、帰ってくるんですか?」
「私は、今回の件についてエルザ・フォルテにある約束を取り付けさせた。それは三ヶ月後、四ツ星学園からS4以外の生徒をひとりヴィーナスアークに送り込み、明ヶ瀬と対決をしてもらう。こちら側が勝てば、明ヶ瀬を四ツ星学園に返してもらうと言うものだ。明ヶ瀬もヴィーナスアークできっと実力を伸ばすことだろう。勝負の行方はまだ誰にも分からないが……」
 諸星は、ただ黙ってルネをヴィーナスアークに差し出したわけではなかったのだ。ギリギリのところでエルザと交渉し、ルネを四ツ星学園に取り戻すチャンスを掴んだのだ。エルザがこれを認めたと言うことは、ルネが勝つと言う自信があるからなのだろう。その意図に気付いたぷろとの心には、急速に闘志が沸き上がってきた。
「その役目、あたしにやらせてください。あのわからず屋を、絶対に四ツ星学園に連れ戻してみせます」
それを聞いて諸星は深く頷いた。
「頼んだぞ。対決は三ヶ月後だ。それまで神風も、これまで以上にアイカツに励んでくれたまえ」
 先程まで諸星への怒りで握られていたぷろとの拳は、今はルネを取り返すと言う新たな目標への決意で固く握られていた。


to be continued...